昭和四十三年九月四日 夜の御理解


 何も出来ない私がこうしてあると言うこと、今日元気であると言うことだけでも本当にありがたい。子供達も信心が嫌いだというものもおらず、よく親の信心をそれなりに頂いている。もう言うならば、何々から何までこういうようなおかげの中にもう、本当にどこに不足も言うところもない。ただ、お礼申し上げることばっかり私は思うのです。たとえば、そう言う意味合ばっかりじゃなくて物やら、銭の家にもやっぱりおかげを頂いておる。昨日一昨日でしたか、丁度二日の日、銀行が参りますから、もう銀行にすっきりお金を渡した後に、光昭が、何か今後バレーの試合に出らなきゃならない。青年会で、そのバレーの道具とかボールなんか、買わしてもらうのにお金が5000*入ると言う。けれども銀行が来た後でしたけど、お許しを頂くのなら、あるだろうと言うて、調べたところ丁度3000*あまりほどあったから、それを持たせた。それから、直子がその後に3カ月分の定期券を買わなければならない。そうすると、月謝と併せて7000*あった、というように。銭だけのことではない。一時が万事の事の上に万物の上に全ての車の上にこのようなおかげを頂いておる。もう何処とどういうことのないおかげを頂いてありがたい。もう思えば思うほどありがたい。信心がもしなかったら、とてもこれしに私は元気におかげ頂いておりまたにいたしても、それぞれ学校に行くのにさあ月謝だ何だと言う時に果して滞りなしに仏うてやる事ができただろうか。本当にさあ必要であれば必要なだけに神様がちゃんとこう先回りして下さるようにいっときが万事にそういうおかげを受けておる。本当に何処をどう考えてもありがたい。さかのぼって言うならば、第一私がこの世にあったかなかったかわからないくらいの所をおかげを受けておる。大坪の一家が、まさしくそうであった。もし信心がなかったら、たとえよし元気であったにしても今日の様におかげを頂いておるとは思えない。もう何処をどんなに考えてもおかげを受けておる。お礼を申し上げなければおれない。けれども、そのそれだけのおかげを頂いておるけれどもやはり子供達に対しても家内に対しても家族のものに対しましてもね、まちっとああなってくれれば、よいのにと言うような願いが走る。これは私の我慢だろうか、私の欲だろうか。今日ある方が、朝の御祈念からずーと、私の御用を頂いて一時の御祈念の後に帰られる。御用すりゃなんぼでも次々御用がある。それで帰れる帰りがけにここで御礼をさせて頂ながら事務所の時計が止まって動かなくなっていた。それをきれいに拭いて、帰りに時計屋に寄って修繕をやっておきましょうと言って持って帰るとこう言われる。帰りには田主丸の方に回りましてから、「むつや」に寄って、実は奥さんの兄弟が結婚する。何を持って行ったら、嫁入り布団を兄さんこうて来れて言う。そこでそんなら、そうしようと折角買うならばむつやで買わせて頂こうと、だから、今日帰りにむつやに寄らして頂こうとこう言われる。もう本当に○○さんわたしゃあんたにおれ言いたいと申しました。同じ買うならならば、むつやで買おうと。例えば信者の友だち、私は信者同士の商売は買いに行くことは私はやかましく言う。けれど、同じ頂くならば、呉服ならば、あそこでと言うようにその心持ちが私はありがたい。それは必ず合楽のこひれいに続いておるからだとこう言われるね。たとえば、むつやが繁盛すりゃ合楽が繁盛につながっておるんだと言う分である。そのね、行き届いた心の使い方が私はうれしい。誰でも止まっとたってお掃除もしなかったり、もちろん大広前の時計じゃあないですから、気もつかない。で、きれいにお掃除して帰りに一寸時計屋に寄って行こうと言われる。もう一時が万事にそうした。行き届いた信心をされるけれどもその事を本当に有難いと思っておる。その方も、ここで御祈念される。私も後ろから、御祈念させてもらっておったら、釣堀センターと頂いた。そこに釣堀センターが出来ておりますでしょう。はあ、こういう生き方、こういうありかたこそですね。いうならば、お徳を受けるのにたとえば、鯉をお徳とおっしゃるがね、いうなら、そう言う生き方こそ、合楽の釣堀センターに鯉を釣り上げるようにいうなら、見やすうおかげがうけられるんだと言うことなんです。それこそ、たとえば、川でなら、鯉を釣ると致しましてもさあ一日一匹釣れるやら、釣れんかもわからんけれども釣堀センターに行きゃあ素人でも3時間釣っておれば、一匹でも釣れるということになるのですけれども、お徳がそう言うあり方にならないとお徳が頂けないのだと頂けにくいんだと、たとえば、私がお徳をこの広前でおかげ頂いているとするならば、その信心を頂き、そのお徳を受けずにはそういうなら、中心である私の信心の心のもうそおうて行かなければおれんという信心とでも申しましょうかなら、かいかところでも手が届くと行ったような信心、そう言う信心は丁度釣堀センターで鯉を釣るようなものだと神様が教えて下さったから、その事を聞いてもらったんですけれどもね。みんなが私がみんなもおかげを頂きたい、お徳を頂きたいと思うだろう。けれども、おかげの受けられる信心をしなければ、お徳を受けられる。このようにおりながら、お徳をよう受けようとする信心をしない、ね。私が思うのに、例えば、私の家庭でいうならば、今も申しますようにこのようなおかげを頂いておる。何処という不足のあることはない。とにかく、おかげを受けておることにです。もう本当にもったいないようなおかげを受けておる。そのもったいないようなおかげを受けておる。そのありがたさがです。それが、たとえば、信心を頂き、それが人が助かる事の為に奉仕させてもらえるなら、家族のものとしておかげがめいめいお徳を受けるということ、なるほど、今も言うように、物に不自由をしない。お金に不自由しない。それが、もし、信心がぬけて、いってそれが当り前の様なことになったら、大変だと、私が残しておかなければならんのは、そうしても信心だ、お徳だ、それがめいめいにつけて欲しい。それには私を中心にです。そんなら、私がいう信心のいわば、痒いところに手が届くような信心をさせて頂いてこそ、お徳が受けられるのだ。わざわざお徳を受けるためにまた、そんな苦労、難儀しなくてもです。率直に私の信心について行きゃあね。釣堀センターで鯉を釣るようにお徳が受けられ、おかげが受けられる場にあるのだから、ここを受けてくれたならば、というのが私のこれ以上望むことはない。これ以上不足はないけれども、願わくば、そういう信心を頂き、そういうお徳をうけて何時何時までも、ここが人の助かる場としての一つの手本であり、そういう場であるところのおかげを頂いて欲しい。これは家族のものだけに願うのではない。ここに御神像を頂いている。全ての人々にそれを思うね。信心を頂いて下さい、おかげも頂いて欲しい。けれどもぎりぎりお徳を受けなければいけん。お徳を頂かしてもらう。たとえば、私が本当にね。家族の事を申しましたように、これはただのおかげじゃあない。お徳を頂いておかなければ、こんなおかげを頂けるはずがない。必要なものが、必要に応じて本当に難儀を感ずることがさらさらないという程のおかげを頂いておる。だから、そういうたとえば、お徳をみんなが受けて欲しい。それには私はお徳を受けさせてもらう。本当に痒いところに手が届くようにというだけじゃなくて、私が育つのにお礼が言いたいというような信心をさせて頂いてこそ、私は釣堀センターで釣りをするようなおかげがいわゆるお徳を受けられると言うふうに思うのですよ。わかっておる。けれども、信心はしておるけれども、なんとはなしにそうじゃあなかと、といって痒いときだけ歯がゆい思いをしなければならないようにです。かいか時かいてもくれん。けれどもそうじゃあなかとというそこんところに触れて行く信心になって行かないと言うことはどうしたことだろうとか、本当に身に徳を受けさせてもらおう。親先生が頂いている信心を本当に頂こうという願いをですね。お互い立てさせてもろうておかげを頂かなければ、私はこういうありがたいおかげをね。持ち続かして行くことは出来まい。本当の人が助かって行くところの場であるところの大広前、そこで御用を頂いておるものはまたは家族のものがです。その真実の信心を本気でめいめいが頂かなければ、たいした修行も出来んのであるから、お徳を頂けるはずがない。けれどもそこにですなら痒いところに手が届くところに信心、そこには、たとえば、何と申しましょうかね。それを*しゅうありがと一つ受けておられる感じですよ。私は今日、そのむつやで寝具を買いたいと言われたとき、本当に私はお礼言いたい気持ちでしたよ。その人は都会の人ですから、ひょっとすると、もっとよい品をもっとより安く手にはいるかもしれんのですよ。決して、あそこにいきゃあ、勉強してもらえるというけちな考えではなくて本当に先生の信心に添いたい、先生の心に添いたい、それがそのように現れておると思わせて頂く時です。有難いと思うたら、釣堀センターで鯉を釣るようないわば、お徳を受けられる。みやすうおかげを受けられるということはそういうことなんです。徳を受けやすいというかそれは釣堀センターで鯉を釣るようなお徳を受けられるみやすうお徳を受けられるとはそう言う事それをわざわざ自分流のまたは*意をかいだ信心ではそういうたとえば、ここに鯉がガチャガチャ泳ぐような場におって(途中切れ)